名曲は論理的でないのが普通だと思う。
名曲の条件なんてよくわからない。基本的には音楽なんて好き嫌い以外に判断のしようがない。でも、僕が好きな曲は大抵論理的ではない。と、言うより論理的な曲自体かなり珍しい。
例えば僕が好きな曲の一つに『天空の城ラピュタ』のエンディングに流れた「君をのせて」がある。この作詞は『ラピュタ』の監督をやってる宮崎駿さん。この曲は全然論理的ではない。
では、論理的とは何か?よく言われる論理的な文章とは文と文を接続詞でつなげることができるかどうか。その点で考えると「君をのせて」はやはり論理的ではない。
実際に曲の前半と後半に接続詞を入れてみても論理的なつながりがまるでない。曲の前半の「沢山の灯が」や「さあ、出かけよう」の前に「そして」や「だから」を入れても文章は成立する。しかし、「父さんが残した熱い想い」の前に「そして」と入れてみてもつながらない。「地球は回る」の前に接続詞を入れてもやはりおかしい。
論理としては破綻しているし最後は何を言いたいのかわからない。なのに、聴いていると胸を打つ。カラオケなどで歌ってもいい気分で歌える。こういうのがいい曲には多いと思う。論理的になると世界観がどうしても狭くなる感じがする。
……ところが、僕が好きな曲の中にかなり論理的な作品がある。それが『母をたずねて三千里』の主題歌「草原のマルコ」だ。
倒置法が多いから接続詞で繋げにくいところがいくつかあるが大抵の文に「そして」や「だから」を挟んでも成立する。なにより「マルコ」の前にすでに「けれど」とちゃんと接続詞が入っている。
最初の風景の描写から、マルコに向かってピントを絞る。「けれど」と逆接を入れることでこの風景にマルコがいることがおかしいことを匂わせている。「お前は来たんだ。アンデスに続くこの道を」と倒置法の描写で自分の意志でこの場所に立っていると説明している。その上「さあ、出発だ」以降でマルコを北に向かって進ませている。「母さんのいるあの空の下」と目的まできちんと付け加えて。
最後まで論理的な矛盾がない。
ここまで論理的なのに世界観が狭いとは感じない。場所の描写的な狭さはあるが。
なぜか?やはり、詩的な表現を盛り込んでいるのが大きいと思う。
「ひとつかみの雲が当てもなくさまよい飛んで行く」や「希望の光、両手に掴み」、「ポンチョに夜明けの風はらませて」など。普通の会話ではまず使わない言葉がこの短い歌詞の中でふんだんに使われている。
これがこの曲を活き活きとさせている。
こういう論理的なのにいい曲という方が珍しいと思う。他にどんな曲があるだろう?もう少し考えてみたい。